ジャンヌ・ダルクの裁判記録が開かれる。あたかも書かれた世界の中に入るように、カメラが教会の手前から奥へと侵入していく。イギリス占領下のフランス。映されるのは陪審員、僧侶、兵隊、司教、審問官。占領した人々と、された人々が明示されずに入り混じっている。最初の裁判の場面において空間全体が映されるのはこのショットのみである。そして、カメラが辿り着いた裁判所の最奥にジャンヌが現れる。人々の視線が彼女へと集中する。彼女はカメラが手前から映してきた裁判所の光景を奥から見返すように視線を動かす。その後、カメラはあたかも人々の視線を辿るように切り返し、移動する。クロースアップによって空間が断片的に切り取られて映されるために、映されたものから空間全体を把握するのが困難になる。代わりに、人々の視線が空間を持続させる。視線の先にある人が映され、その人の視線の先にある人が映される。この繰り返しによって空間と人々の位置関係が認識できる。ジャンヌの返答に感化された僧侶の一人が立ち上がり、彼女の元へと移動する。彼に集まる視線が映される。ジャンヌの位置におかれて初めて彼は彼女へと囲うように集中している視線を認識し、逃げるように立ち去っていく。彼の行動をきっかけに、司教の指示によって武器を持った兵隊たちが裁判所へと入ってくる。そのために、ジャンヌの側に立つ人々も司教に従うしかなくなる。彼らは声を発することを禁じられ、彼女を見つめるのみとなる。ジャンヌを中心としつつも複数人の間で網の目上に交わされていた視線と声は、彼女と彼女を囲う人々という二項の間の往復へと変容する。ジャンヌと囲う人々のクロースアップが繰り返されるために、あたかも彼女と彼らが前後に向かい合っているように見える。歪められた空間の中で、ジャンヌの視線の動きのみが空間内の人物の配置を伝える。ジャンヌのみが映画内の空間を支える存在となる。
殆どのショットにおいてジャンヌは他登場人物と共に映されない。加えて彼女はスクリーンのような白い壁を背にして撮られており、それは舞台が屋外に映る終盤においても同様である。対して、他の人物の背景は場面に応じて変化していく。そのために、あたかもジャンヌが一人、他人物から隔絶された別個の空間に属しているかのように見える。司祭へとジャンヌが手を伸ばすショットが鮮烈な印象を残すのは、隔絶されているはずのものが司祭の属する空間に侵入するからだろう。彼女が隔絶された空間にあるのは、他の人物たちの属する空間が彼女から隠されているからである。ジャンヌは自由に動くことができず、彼らに答えるのみで彼らについて知ることができない。手紙や契約の内容を文盲である彼女は読むことができない。クロースアップによって示されるように、ジャンヌが見ることができるのは彼らの属する空間の断片のみである。ジャンヌは隔絶されながら、視線の動きによって断片化された空間を繋ぎ止めようとする。彼女が隔絶されているのは、彼女に見えているものが他の人物たちに見えていないからである。彼女が語る内容を司祭たちは信じない。彼女が藁の王冠を通して見ているものが彼らには見えていない。彼女が救いのように見出す十字架型の影を、訪れた審問官が気づかず消してしまう。そもそも、彼らはジャンヌのみを見ていて、ジャンヌの見ているものを見ようとしない。
拷問装置を前にしてジャンヌは気絶する。ベッドに倒れるジャンヌの左側には窓があり、十字架型の格子がついている。右側には署名を迫る司教が座っている。この左右に分たれた配置に象徴されるように、ジャンヌが迫られるのは信仰を選ぶか、手紙に署名し、信仰を捨て生きるかの二択である。信仰を選んだ先には火刑による死があり、生きることを選んでも牢獄の中で抑圧されながら暮らすことになる。クロースアップによって人々の表情が何度も映し出される。わかりやすく感情を表に出す占領者たちに対して、兵隊が介入して以降、ジャンヌ以外の被占領者たちは殆ど感情を露わにしない。クロースアップが用いられているのは、顔や目の奥にある、表面化しないものを映し出すためでもあるのだろう。その中で、アントナン・アルトーの演じる僧侶マシューと審問官が何かを押し込めたような表情をもって浮かび上がる。二人は信仰を少なくとも表面上は捨て、抑圧されながら生きることを選んだ存在だろう。劇中、占領者たちの視線は抑圧するものとしておかれている。ジャンヌの元に一人訪れた審問官は司教に監視されていることに気づき行動を変える。僧侶マシューは監視の外でジャンヌにフランスの勝利と解放について質問する。二人はジャンヌを見る側でありつつも、視線の元に自由でない。
ジャンヌは映画内の空間を繋ぎ止める存在であり、観客の視線の拠り所となっている。そもそもジャンヌ以外のショットの殆どが彼女への方向性を持っているために、意識は彼女に向かざるを得ない。この映画の観客もまた、ジャンヌを見る人々である。しかし異なるのは空間の認識である。空間を想像しようとすれば彼女の視線を追うことになる。彼女の視線の先にあるものへと意識が向かう。彼女はあたかも背景にある白い壁が、スクリーンが光を反射するように、自らの視線によって向けられた視線を別の方向へと跳ね返す。その先にあるのは断片的に切り取られた世界である。彼女の発する声、表情と共に見ることによって、それら断片の間に彼女の内側、彼女の感情の揺らぎ、そして彼女に見えているものを浮かび上がらせることができる。監督であるカール・TH・ドライヤーがこの映画をトーキーとして撮ろうとしていたのはそのためだろう。
ジャンヌの視線の先には信仰のみがあったのだろう。しかし視線は彼女を囲う者たちによって遮られてしまった。司祭たちは拷問器具、サクラメントを「見せる」ことによって彼女を揺るがせる。彼らは彼女の視線を遮る者であり、逸らさせる者でもある。視線の自由こそが抑圧されているのだ。彼女の揺らぎを象徴するのは画面内に幾度も映される十字架である。彼女の視線の先にない時も、彼女の周りには常に十字架がある。殉教することが予め決められていたと捉えることもできるだろう。火刑を前にした彼女の視線の先には死体を埋める穴があり、死に恐怖したように彼女は署名する。しかし、ピントが合っていないだけで穴の先には十字架が映っている。そして、彼女は捨てられていく藁の王冠を「見る」ことによって署名を撤回し殉教することを選ぶ。視線が抑圧から解放される。執行人の落とした、自身を火刑の柱へと縛る紐を自ら拾い上げる。視線の自由は彼女の魂の自由と重ねられる。解放された視線の先には空があり十字架がある。そして、いつか来る占領からの解放があるのだろう。審問官ははじめ彼女に見えているものを見ていない。だから彼女の元に訪れた時、彼女が十字架の影を見ていることに気づかない。しかし見るようになっていく。ジャンヌが火刑を選んだ後、審問官が遠くから秘蹟を受ける彼女を見るショットが挟まれる。彼はジャンヌを見ると同時に、彼女の先にある格子によって作られた十字架を見ている。
審問官や僧侶マシューはジャンヌ、そしてその視線の先にあるものを見い出していく存在である。ジャンヌの内面は視線の先にあるものと表情、声という断片の間に浮かび上がる。審問官や僧侶マシューに関しても同様である。ジャンヌや彼らが断片に何を見ていて、何を思うのかを真に知ることはできない。しかし想像する回路が組み込まれている。クロースアップによって内面までも浮かび上がるように映された被占領者たちの表情と対となるのは、無機質に撮られた拷問装置や兵隊の動き、そして占領者たちの視線や声の伝達である。兵隊達の移動が、天地が回転するように撮られることによって拷問装置の回転と重ね合わされる。占領者の間での伝達が、武器を互いに手渡していく兵隊達と同様のカメラ移動によって撮られる。捉えられた一回きりの表情に対して、それらは変化なく反復する。彼女を見ようとする市民達は兵隊によって殺され、城の外へと追い出されていく。ジャンヌを囲う炎と市民を殺し追い立てる兵隊達がモンタージュによって重ねられる。市民達の表情もまたクロースアップによって撮られ、兵隊の動きと対比される。火刑の柱に貼られたジャンヌを貶める言葉が燃え消えていく。城に続く橋は閉じられる。被占領者たちは外へと隔てられ、僧侶達は内へと幽閉される。ジャンヌはもう既にカメラの中にいない。カメラは彼女のあった場所、炎の中に空と十字架を映し出す。彼女の視線によって繋ぎ止められていた空間は引き裂かれる。しかし、ジャンヌの視線は彼女を目撃した誰かが受け継いでいるのだろう。この映画が映し出すのはジャンヌであり、そうでない。