『旅への誘い(L’Invitation au voyage)』の冒頭に引用されるのはシャルル・ボードレールの『悪の華』の一篇であり、同じタイトルを持つ「旅への誘い」である。ここで『微笑むブーデ夫人』で引用され、同じく『悪の華』に収録されている「恋人たちの死」は「旅への誘い」の変奏のような詩となっている。例えば、「恋人たちの死」の
私たちはもつだろう、かすかな匂に満ちた寝台を、
墓穴のように深々とした長椅子を、
そして飾り棚の上には、奇怪な花々(シャルル・ボードレール「恋人たちの死」阿部良雄訳)
という一節は、「旅への誘い」の
光沢のよい家具が、
歳月に磨かれて光り、
私たちの寝室を飾るだろう。
世にも珍しい花々の
匂にまじり漂うのは、
微かに、あるかなきかの、竜涎の香、(シャルル・ボードレール「旅への誘い」阿部良雄訳)
という一節とモチーフを共有している。「旅への誘い」では〈私たち〉が船によって旅立つ様が語られる。そして旅立ちの先にあるのは〈入り陽の光〉によってあらゆるものが〈金色と、赤紫に〉染められた光景である。「恋人たちの死」においては〈私たち〉の死と共に〈神秘的な青と薔薇色から成る夕べ〉に〈一つの稲光〉が生み出される。そしてどちらにおいても、詩によって現出する光景は実現されるかが不確かな、未来のこととして描かれる。そして「旅への誘い」において〈私たち〉が共に旅立つことによってその光景に辿り着こうとするのに対して、「恋人たちの死」においてその光景は〈私たち〉の死に伴う別れと共にもたらされる。
「旅への誘い」を引用した『旅への誘い』もまた「恋人たちの死」を引用した『微笑むブーデ夫人』の変奏のような作品となっている。ボードレールの二つの詩と同様に、どちらの作品においても主人公は囚われながらも〈私たち〉として劇中世界には存在しないかもしれない光景を、内的世界を通して見ようとする。『旅への誘い』は『微笑むブーデ夫人』において実現されなかったその光景を、再び実現しようとした作品として捉えることもできるだろう。
『旅への誘い』というタイトルは、冒頭で引用されるボードレールの「旅への誘い」を指すと同時に、舞台となる〈旅への誘い〉というキャバレーの名でもある。キャバレーの回転扉の前に〈女性(la femme)〉という役名の主人公が現れる。回転扉の先に広がるのは異国へと航海する船のように装飾されたフロアであり、店員やステージの演者たちが乗員を演じている。客である男たちもまた、水兵や船の乗客のように着飾っている。舞台となるキャバレーはハリボテの船であり、『微笑むブーデ夫人』における舞台となる街と同様に演じられた世界である。
回転扉を抜け、席についた〈女性〉の元に様々な言語で書かれたメニューが渡される。注文を終え、ひとりになった彼女は回想を始める。映し出されるのは彼女の日常風景であり、『微笑むブーデ夫人』におけるブーデ夫人と同様に、彼女は夫と共に暮らしており、家の中、もしくは結婚生活に囚われたまま、変化なく繰り返される日々を送っていることが示される。時間が経つ様は捲られるカレンダーによって比喩的に示され、変化のない繰り返しに対する〈女性〉の心象はブーデ夫人のものと同じように、時計の振り子の揺れによって示される。ここで、回想の中での彼女が夫と暮らす家は、状況を示すために必要な最低限の家具が無地の背景の元に置かれた空間として、あたかも演劇の舞台上であるかのように演出されている。演劇において舞台上のセットが演出者の指定通り運び込まれてくるように、回想の中の家具もまた、何者かによって作為的に一つずつショットの中に導入されていく。回想の中の彼女の家もまた、ブーデ夫人の暮らす家と同様に演じられた世界なのだ。
劇中世界は演じられた世界であり、〈女性〉の暮らす家の内と外に区切られている。回想において『微笑むブーデ夫人』と同様に、〈女性〉は家の内に閉じ込められているが、夫は家の内と外を自由に行き来する。そして夫の通う「家の外」こそが舞台となるキャバレー〈旅への誘い〉である。キャバレーには船の窓を模した丸窓があり、キャバレーの外へと繋がっている。回想の中で、〈女性〉は丸く縁取られた家の窓を通して、夫が家の外へと出ていく姿を見るが、このシーンは〈女性〉が丸窓越しにキャバレーの外から、中で夫が遊んでいる姿を目撃するシーンとシームレスに繋げられている。あたかも〈女性〉の家が丸窓を通して直接キャバレーに繋がっているかのように編集されている。キャバレーは〈女性〉の家の外を象徴する空間としておかれているのだ。キャバレーの客は男性のみであり、入り口では自由に出入りできないように警備員が監視している。キャバレーの描写は、家の外がどのようなものであるか、なぜ〈女性〉が家の外へと出ることができないかを比喩的に示している。
〈女性〉は「家の外に出る=キャバレーに入る」ことを禁じられた存在である。〈女性〉にとって、キャバレーの丸窓は家とその外であるキャバレーの間の境界としておかれている。船の丸窓を開くことができないように、キャバレーの丸窓は〈女性〉にとっての家の内と外との間の隔たりを示すモチーフである。それに対して、入り口であると同時に出口でもあり、内側と外側の間ではなく両方にまたがるように設置された回転扉は、それら二つの空間の境界をその回転によって攪拌するモチーフである。冒頭、〈女性〉は夫の目やキャバレーの監視員の目を盗み、回転扉を通して禁じられている家の外、キャバレーの中へと抜け出してきたのだ。
やがて始まる演劇はタバコの煙を海に立ち上る雲のように見せる。演奏が始まり、人々が踊り出す。演劇、演奏とダンスをきっかけに〈旅への誘い〉というハリボテの船に、海へと旅立つ船からの風景が連想的に重ねられていく。キャバレーが幻想の船の場を纏い始める。はじめはキャバレーにいる人々が集団的に見ているように示される幻想は、段々と〈女性〉だけのものへと絞られていく。それと並行して、幻想はボードレールの「旅への誘い」で描かれる光景やモチーフをなぞっていくようになる。〈女性〉はキャバレーに「旅への誘い」の詩世界そのものを見出していく。そして〈女性〉が見出す詩世界は『微笑むブーデ夫人』においてブーデ夫人が幻視するのと同様に、二重写しによってキャバレーへと重ねられながら映し出されていく。あたかも演劇を見ながら、自分が演劇によって立ち上がる世界の中にいるかのように、〈女性〉はキャバレーという演じられた世界にいる自分に「旅への誘い」の詩世界の中にいる自分を見出していくようになる。
キャバレーが船へと変わるとき、〈水兵(le marin)〉という役名の男性が〈女性〉に声をかける。その姿は、家の中にいる〈女性〉に彼が声をかける姿へと重ね合わされる。〈水兵〉は〈女性〉を演じられた世界の外へと連れ出す存在としておかれている。そして二人は他の人々と共に踊り始める。揺れながら回る〈女性〉の主観ショットへと切り替わる。踊る〈女性〉の視界に広がる、人々の足元が回転するカメラによって映し出される。揺れと回転によって目眩が引き起こされ、〈女性〉の視界は段々と海に反射する光のように煌めく模様へと変わっていく。〈女性〉は目眩が船酔いであるかのように、椅子に戻り休む。〈水兵〉は壁に取り付けられた丸窓の向こうに、本当に海が広がっているかのように見せる。〈水兵〉の視点から、キャバレーが太陽の光によって煌めくように映される。この光り輝くヴィジョンは、『微笑むブーデ夫人』においてブーデ夫人がピアノを演奏するときに見る、どこにもない雨あがりの庭の風景と対応する。幻視される航海の風景は、想像の中にのみ存在する劇中世界の外なのだ。そして〈女性〉は一人ではなく〈水兵〉と共に抜け出す。
踊るとき、〈水兵〉は〈女性〉の位置へと足を進め、〈女性〉は〈水兵〉の位置へと動く。それを繰り返していく。そして回転によって生じる視界の揺れは目眩のように、映る人々を区別なく一つの模様へと混ぜ合わせていく。この映画において回転は内側と外側の境界を超える契機としておかれている。踊りの回転はキャバレーの内側の人々と、外側にある〈女性〉との間の境界を攪拌するものであると同時に、演じられた世界の内側と、幻想の中にのみ存在するその外の間の境界を曖昧にするものでもある。劇中世界は演じられた世界であり、〈女性〉の家とその外であるキャバレーの二つに区切られている。〈女性〉はまず扉の回転によって家の中から外へと移動する。そして踊りの回転によってキャバレーの内側の人々へと溶け込んでいく。そして踊りの回転は同時に、〈女性〉を〈水兵〉と共に演じられた世界の外へと連れ出していく。二人はキャバレーが海の上を異国に向かって進む船であるかのように、丸窓の外に光り輝く航海の光景を見る。しかし現実には丸窓の向こうは海ではなく、ただゴミの散らばるキャバレーの外である。そして演奏は終わり、踊っていた人々は席へと戻っていく。
家の中からキャバレーへと抜け出してきた〈女性〉に対して〈水兵〉ははじめからキャバレーの中にいる。踊りが終わり、二人はそれぞれ違う視点から、それぞれの想像の中にある詩世界を眺めるようになる。〈女性〉は家の中に縛りつけられた存在であるが、〈水兵〉はその家の中に入ることができない。丸窓は〈女性〉の家の中と、その外であるキャバレーの間の隔たりを示すモチーフである。そして、二人の間の隔たりを示すモチーフとしてあるのが〈女性〉の結婚指輪である。〈水兵〉は結婚指輪によって〈女性〉が結婚していることに気づく。〈水兵〉の手が〈女性〉のブレスレットに引っ掛かり、ブレスレットについていた丸いペンダントがとれる。その中には〈女性〉の写真が入っている。丸く切り取られた〈女性〉の顔は丸窓の向こうにあるようである。結婚指輪と、丸窓が二人の間の超えることのできない隔たりの存在を象徴する。キャバレーの店員が〈水兵〉を誘い、〈女性〉はキャバレーの中で一人残される。キャバレーの内側の人々へと溶け込んでいた〈女性〉は、キャバレーの外へと心理的に押し出されてしまう。〈水兵〉が残された彼女を見るとき、その視界は丸窓越しに見ているかのように丸く縁取られている。〈女性〉が店員と共にいる〈水兵〉を見るとき、同様に視界が丸く縁取られ、その姿はキャバレーで遊ぶ夫の姿と重ねられる。〈水兵〉が〈水兵〉からキャバレーの客の一人となってしまうのだ。結婚指輪に続く店員の誘いによって、二人が内と外へと隔てられていることが互いの間で明らかになる。二人は互いを丸窓の向こうにしか見ることができなくなる。〈女性〉はキャバレーの外へと、元いた家へと押し戻されていく。〈水兵〉は隔てられているために、それを追うことができない。船は再びハリボテとなる。分かたれたことで、二人が共に見ていた演じられた世界の外の光景もまた失われていく。
最後に〈水兵〉の想像による、家へと帰った〈女性〉の姿が映される。その光景は二人が丸窓によって隔てられていることを示すように丸く縁取られており、引き続きセットであることが明示されつつも、〈女性〉の回想における家とは違い、明暗のコントラストのはっきりとした演出で撮られている。『微笑むブーデ夫人』において家へと追い詰められたブーデ夫人の見る内的世界と共通する演出となっている。
ブーデ夫人は演じることを拒否することで、演じられた世界である劇中世界への適合を拒絶し、結果劇中世界に閉じ込められてしまう。〈女性〉が既に劇中世界に拒否することなく閉じ込められているこの映画は、その続編として見ることもできるだろう。『微笑むブーデ夫人』には三つの世界が存在している。演じられた世界としての地方の街(=劇中世界)、ブーデ夫人の内的世界、そしてその二つが重なり存在するブーデ夫人の暮らす家であり、家には演じられた世界の外への経路としてピアノがおかれている。そして、地方の街がブーデ夫人と家へと侵食することで、家もまた地方の街と同様に演じられた世界に支配され、内的世界への経路、そして演じられた世界の外への経路が失われて終わる。『旅への誘い』において劇中世界は、〈女性〉の家と、キャバレー(=〈女性〉の家の外)の二つに区切られ、キャバレーは演じられた世界でありつつも、回転によってその外である「旅への誘い」の詩世界を纏い始める。〈女性〉は同じく演じられた世界である家からキャバレーへと移行し、そして再び家へと帰るが、結末において家は内的世界となっている。そして〈水兵〉は演じられた世界の外に出ることのできないまま終わる。『微笑むブーデ夫人』においてブーデ夫人が演じられた世界と、内的世界の二つに分かたれ、それぞれ閉じ込められて終わるのに対して、『旅への誘い』では演じられた世界において分かたれていた二人が再会し、演じられた世界と内的世界へとそれぞれ戻っていく。
演じられた世界から抜け出す経路は、想像の中にのみ存在している。ブーデ夫人ははじめから演じられた世界と内的世界の二重の生活を送っており、孤独にピアノを演奏することで、つまり内的世界を介して演じられた世界の外へとアクセスする。しかし劇中の出来事によって内的世界が決定的に分離され、演じられた世界のみに生きることを強いられる。そのために、演じられた世界の外への経路も失う。『旅への誘い』において〈水兵〉ははじめから演じられた世界であるキャバレーに生きている。そこに、ふと降り立ってきたかのように突然〈女性〉が現れる。〈女性〉の家は二人の想像の中でしか映されず、常に非現実的な様相を持つ。〈水兵〉にとって〈女性〉は内的世界に生きる存在である。〈水兵〉は『微笑むブーデ夫人』の結末において演じられた世界に閉じ込められたブーデ夫人に、〈女性〉は内的世界に閉じ込められたブーデ夫人に対応すると考えることもできるだろう。〈女性〉の回想の中での家が演劇的に演出されているのは、劇中世界に生きるもう一人の彼女が演じられた世界に押し込められていることの反映なのかもしれない。回転によって二人の間の境界が溶かされ、〈女性〉の内的世界を介して〈水兵〉と〈女性〉は、想像の中にのみある場所へと抜け出す。『旅への誘い』と『微笑むブーデ夫人』どちらにおいても、目指される場所は演じられた世界の外である。それは想像によってのみ達することのできる現実には存在しない煌めく場である。行き着く結末は共通するが、『旅への誘い』においては回転による境界の攪拌が契機として見出されているのだ。