淡々と、灰色に映されていく住宅街。低いアングルから撮影された街の空は狭い。舞台となる地方の住宅街を固定で捉えたショットに〈閑静な住宅街の表情の裏には、魂が…情熱が…〉という中間字幕が続く。そして家の中で一人、ピアノを弾く女性の指が映される。タイトルの指すブーデ夫人(Madame Beudet)である。彼女が弾いているのはドビュッシーの『雨の庭』であり、演奏する彼女には雨あがりの庭の風景が見えている。一瞬の風景のショット。緑に溢れた庭に雨水が張り、水に満ちた土は差し込む太陽の光を反射し煌めいている。この風景は舞台となる街には存在しない。彼女にだけ、ピアノを弾いているときにだけ見える幻想の風景である。彼女は劇中での呼称が示す通り、夫であるブーデ(Monsieur Beudet)と結婚し共に暮らしている。ブーデが舞台となる街や家を自由に移動するのに対して、彼女の行動範囲は家の中、その一部分に限られている。そこで彼女は繰り返しの毎日を送っている。上映時間の大部分を二人が暮らす家の中でのショットが占める。家の中は、その家が位置する冒頭の住宅街と同様に、くすんだ灰色によって平坦に撮られている。この映画においてカメラは、焦点人物に見える世界を第三者の視点から映し出す。灰色で平坦なのは彼女にとっての街であり家である。彼女は結婚によって地方の街、その一部分である家の中に囚われた存在である。彼女はピアノを弾いている間だけ、家でも街でもない場所、幻想の中にのみ存在する場所へと抜け出すことができるのだ。
劇中人物を紹介する導入部、ブーデ夫人は家でピアノを弾き、本を読んでいる。その間、ブーデは家の外で商談している。カメラは二人の生活を対比するように、交互に切り替えながら映していく。家に戻ったブーデは共に会社を営むラバス(Monsieur Labas)とその妻であるラバス夫人(Madame Labas)からの招待状を読む。ブーデ夫人はブーデが読まずにはねのけた雑誌を手に取り、そこに印刷された都会の生活を眺めている。引きのショットによって初めて二人が同じフレームに収められる。二人が同じ部屋で、互いに向かい合って座っていることが明らかになる。このショットや導入部の切り替えに象徴されるように、二人は対照的な関係にある。ラバス夫妻もブーデと同様に、ブーデ夫人と対照的な存在として設定されている。雑誌を眺めるブーデ夫人は、車の写真から車によって雲の上へと飛ぶ様を、テニスプレーヤーの写真から彼が夫を家の外へと投げ出す様を、夢見るように幻視する。当時、車とテニスは都会の文化だった。ここで都会は具体的な土地ではなく、舞台となる地方の街の外、つまり「ここではないどこか」を意味する。舞台となる街に根付いた存在であるブーデやラバス夫妻に対して、夫人は舞台の外へ出ることを夢見る存在としておかれている。
最も顕著な対照は、役者が彼らを演じるスタイルの違いにある。ブーデやラバス夫妻が当時のサイレント映画に典型的な誇張、戯画化された演技によって演じられているのに対して、ブーデ夫人のみが表情や手振りによって感情をわかりやすく示すことのない、自然な演技によって演じられている。あたかも、現実世界から劇中世界へと無理矢理連れてこられたかのようだ。演じられているというよりは、劇中世界に囚われた彼女の反応をそのまま撮っていると言った方が正確なように思える。このような自然に即した演技は当時新しいものだっただろう。新しい演技と従来的な演技という対比は、新しい価値観の生まれつつある都会と、従来的な価値観の根強い地方という対比と対応している。彼女の自然に近い演技はブーデやラバス夫妻が演じられた役であることを対比的に強調する。彼女は劇中世界を異化する存在である。ブーデやラバス夫妻の衣装だけを映したショットがそれぞれ印象的に挟まれるが、それは彼らが表層、つまり役割によって生きていることを象徴する。彼らの纏う衣装、つまり彼らの演じる役こそが彼らなのだ。それはブーデとラバスの経営する会社が布の商社であることによっても示される。映画の中で役者は与えられた役を演じる必要がある。そのことが、舞台となる地方の街において与えられた役割通りに沿って生きる必要があることを比喩的に表している。それに対して、ブーデ夫人は演じようとしないのだ。
ブーデはお決まりのジョークとして「自殺ものまね」を行っている。自分の思い通りにならなかったときに、銃口を頭に突き当て、引き金を引こうとする。しかしその銃に弾は込められていない。「自殺ものまね」は中身のない演技なのだ。ラバス夫妻はそれを見て驚き、止めようとする。演技であることを見抜けないのは、彼らもブーデと同様に、演じられた役によってのみ生きているからだとも考えられる。「自殺ものまね」は同時に、ブーデによって何度も繰り返される空虚な演技でもある。ブーデ夫人はドビュッシーを弾き、ボードレールの『悪の華』の一篇である「恋人たちの死」を読む。これはドビュッシーがボードレールの詩から五篇選び作曲した『ボードレールの五つの詩』からのものだと推測される。ボードレールとドビュッシーに対して、対照的におかれているのはブーデがラバス夫妻によって招待される『ファウスト』のミュージカル演劇である。ブーデはブーデ夫人に一緒に来るように誘う。このとき、ブーデ夫妻の家が『ファウスト』の舞台へと変化する。ブーデがファウストに、ブーデ夫人はグレートヒェンとなっている。グレートヒェンはメフィストによって若返ったファウストの子供を孕む人物である。グレートヒェンはその後精神を病み、子供を殺してしまう。ここで、誇張された演技、演劇的な演技によって演じられている夫は『ファウスト』の演劇世界へとシームレスに入り込む。しかし自然に演じられたブーデ夫人はそうでない。ブーデやラバス夫妻が好む『ファウスト』の演劇は従来的な文化として、ボードレールとドビュッシーは新しい文化として対照的におかれている。『ファウスト』の演劇は、劇中世界の比喩となっている。劇場では役者たちによって同じ演目が繰り返し上演される。同様に、舞台となる街では同じ日常が変化なく演じられている。ブーデによる「自殺ものまね」は劇中世界が中身のない演技の世界であることを象徴すると同時に、それが変化のない繰り返しの世界であることを象徴する行為である。ブーデ夫人はラバス夫妻と違い「自殺ものまね」に全く反応しない。それは繰り返される演技に対して飽きていることを意味するが、あたかも劇中世界が演じられた世界であることを知っているかのようでもある。
劇中、ブーデ夫人が拒否するのは「妻」という役割を演じることである。舞台となる地方の街において、ブーデとラバス夫妻が象徴する従来的な価値観が支配している。同様に、劇中世界のレベルにおいても、彼らのような演技が支配的である。そして、劇中世界は変化なく繰り返される世界である。ブーデ夫人は彼らと同じように役割を演じることで舞台となる街に、表面的な演技を行うことで劇中世界に溶け込むことができる。しかし、彼女はそうしない。演じないことによって舞台である街、劇中世界に適合することを拒否する。
ラバスはブーデに対して、女性とは人形のようなものであり、繊細で壊れやすいと語る。そして、ブーデはその言葉によって妻に対する認識を改める。ブーデ夫人を繊細で壊れやすい人形として見るようになる。しかし、劇中世界において彼らこそが人形である。彼らは与えられた役を演じることで劇中世界を生きている。つまり、彼らは人形劇の世界に生きているのだ。であれば、人形を操る存在が別に存在することになる。それは、劇中世界を操る人物、つまり映画の製作者である。そして、劇中世界は『ファウスト』と重ねられている。であれば、映画の製作者は悪魔であるメフィストということになるだろう。ブーデ夫人は『ファウスト』への誘いを断るが、その姿はグレーヒェンと重ねられている。『ファウスト』においてグレーヒェンは、ファウストの背後にメフィストの存在を感じたために、ファウストを拒絶する。舞台となる街においてブーデやラバス夫妻は役割を演じることによって生きている。それが、映画において役者が与えられた役を、人形のように演じることに重ねられている。そして、その背後から人形たちを動かしているのはメフィストたる映画の製作者である。であれば、舞台となる地方の街においても、劇中で描写されるような価値観を作り出した存在がいることになる。そして、その存在は悪魔と重ねられている。
この映画において、カメラは焦点人物に見える世界を第三者の視点から映し出す。街や家が灰色で平坦に映されるのは、ブーデ夫人にとってそう見えているからである。ブーデ夫人にとって劇中世界は変化なく繰り返されるモノクロの世界である。ブーデとラバス夫妻が『ファウスト』へと向かい、家を出る。ブーデ夫人が部屋の電灯を消す。すると、フレームに入り込む光が窓から差すもののみに絞られ、平たく均質に照らされていた部屋が、暗く、そして明暗のコントラストのはっきりとした部屋へと変貌する。ブーデ夫人が現出させる幻想もまた、同様の演出によって撮られている。ブーデやラバス夫妻の世界は平坦に照らされていて、ブーデ夫人の一人の世界は絞られた光によって、光と暗闇がくっきりと分かたれている。ブーデ夫人が一人でいるときにだけ現れる世界は、均質に照らされた劇中世界とは異なる、別個の世界として対照的に演出されているのだ。人形劇の世界である劇中世界に対する世界として、ブーデ夫人の内的世界があるのだ。そして『ファウスト』はその誇張された演技によって前者に、ボードレールやドビュッシーは演じることを拒否し内的世界に向かうものとして後者に対応している。ブーデ夫人は一人のときは内的世界に、そうでないときは劇中世界へと行き来しながら生きているのだ。そして、ブーデ夫人は内的世界に入り、ピアノを弾くことによってその世界を通して劇中世界の外へと抜け出すことができるのだ。
しかし、外への経路は閉ざされてしまう。『ファウスト』を見に出かけたブーデが、留守の間ピアノを弾けないように鍵盤カバーに鍵をかけてしまうのだ。そのために、夫人は家の中、つまり劇中世界に閉じ込められると同時に、一人の世界、つまり内的世界の中にも閉じ込められてしまう。それによって、ブーデ夫人は内的世界と劇中世界の間の境界を失っていく。『ファウスト』においてグレーヒェンはファウストのいない間に精神を崩していく。同様に、ブーデたちが『ファウスト』を鑑賞している中で、閉じ込められたブーデ夫人は劇中世界によって抑圧されていく。同じ一日を繰り返す劇中世界を象徴するように、時計が映され、鐘の音が何度も鳴り響く。鐘の音は開け放たれた窓を通して家の外から家の中へ、そして彼女の内的世界へと侵入する。窓は外にあるものを内へと流し込む。しかし窓から外に出ることはできないのだ。そして、彼女はブーデが窓を通して内的世界へと侵入してくる様を幻視する。鐘の音と共に、劇中世界が内的世界を侵食していく。鏡は分裂を象徴する。鏡を覗き込んだ彼女は、もう一人の自分をその向こうに発見する。内的世界と劇中世界を切り分け、行き来していた彼女は抑圧により、内的世界の自分と、劇中世界の自分へと分裂する。そして、内的世界の彼女はブーデの銃に銃弾を込める。映画の撮影において銃は常に空である。弾を込めることは、演じられた世界である劇中世界を崩壊させることを意味する。それは内的世界に押し込められたブーデ夫人による劇中世界への反抗である。
悪夢のような夜が終わり、朝となる。日の光が街や家を均等に照らしていく。劇中世界は灰色で平坦な世界へと戻る。目覚めたとき、ブーデ夫人は分裂した片方、劇中世界の彼女であり前日のことを悪夢だと、現実に起きたことではないと思い込んでいる。そして身支度のために鏡を覗き込むとき、もう片方、内的世界の自分の存在に気づく。あたかも自分ではない誰かが行ったことのように、銃弾が込められていることに気づく。彼女は銃弾を抜こうと試みる。しかし劇中世界を自由に劇中世界を行き来するブーデに対して、彼女の移動は制限されている。そのために、試みは成功せず、ブーデは銃弾の込められた銃によって「自殺ものまね」を始めてしまう。ブーデは彼女に銃口を向け、引き金を引く。発射された銃弾は奇跡的に彼女を逸れ、花瓶を破壊する。それを見て、ブーデは彼女が銃で自殺しようとしていたと思い込む。ラバスの言葉によってブーデは彼女を人形のように繊細で壊れやすいものだと認識するようになっている。銃弾が込められていたことは、その認識を裏付けるものとなる。ブーデは「君なしでどう生きろというのか」というセリフと共に、彼女を抱きしめる。ブーデ夫人は誰も殺すことなく、意図があったことすら露呈せずに終わる。ブーデは、この出来事によって妻を粗雑に扱っていたこと、そして妻を愛していることを再認識する。ハッピーエンドである。劇中の出来事によって変化がもたらされたのはブーデの妻に対する認識のみであり、劇中世界はこれからも変わることなく続いていく。しかし、抱きしめられたブーデ夫人は無表情に、ブーデから顔を逸らし続ける。ブーデはこれからは彼女を人形として扱うようになるのだろう。そして、二人の後ろに飾られた額縁の中に、二体の人形が現れる。ピントがブーデたちから外れ人形に合わされる。人形は二人の動きと同期している。彼女は人形劇の中の人形となったのだ。そして、額縁の中の人形劇に幕が降り、幕に重なるように〈劇場(THEATRE)〉という文字が表示される。「君なしでどう生きろというのか」というセリフは、彼女の視点から見たときに別様の意味を持つ。彼女は、これからも繰り返し変化なく上演され続ける、人形劇の世界へと囚われてしまう。それは彼女が劇中を通して拒否していた世界である。彼女は人形としてハッピーエンドの先を演じ続けることになるのだ。『微笑むブーデ夫人』というタイトルに反して、劇中ブーデ夫人が誰かに対して微笑むことはない。タイトルは、この映画が終わった後の彼女の、人形として演じる姿を指し示しているのだろう。この両義的なハッピーエンドは非常にご都合主義的で、うまく作られた展開によってもたらされる。その事実が、人形劇を操るものの存在を示す。メフィストと重ねられた、映画製作者である。劇中世界に対する彼女の反抗は、劇中世界を維持しようとする存在によってうまく処理されてしまうのだ。作られたハッピーエンドの後、舞台となる街を歩く夫婦が映される。二人が歩く道の先はもやがかっていて、永遠に続くかのように見える。悪魔はこの劇中世界を作り出し、維持しようとする映画製作者を指している。であれば、舞台となる街を彼女を役割の中に閉じ込めるような場として作り出し、維持している存在もまた悪魔と重ねられていることになる。ラストショット、長い道を歩いて行こうとする夫婦の元に神父が現れ、声をかける。
『微笑むブーデ夫人』において、主人公であるブーデ夫人は劇中世界に囚われながらも、演奏や詩を読むことによって違う世界へと抜け出る。劇中世界は役者によって演じられた世界であり、違う世界とは彼女の想像によって作られた内的世界である。はじめ彼女は演じられた世界と内的世界を行き来しながら暮らしている。しかしその間を繋ぐドアであるピアノの鍵盤カバーに鍵がかけられてしまう。劇中世界と内的世界の間に跨ぐことのできない境界が作られ、彼女は劇中世界に属する自己と内的世界に属する自己の二つに引き裂かれてしまう。分裂が決定的になるとき、彼女が読むのはシャルル・ボードレールの『悪の華』の一篇「恋人たちの死」である。引用されるのは冒頭の三行のみであるが、この詩は全体として、劇中ブーデ夫人の経験する分裂と呼応している。
私たちはもつだろう、かすかな匂に満ちた寝台を、
墓穴のように深々とした長椅子を、
そして飾り棚の上には、奇怪な花々
より美しい空の下で二人のために咲いたものを。負けじとばかり最後の熱を注ぎ尽くし、
私たちの二つの心は、二つの大きな松明となって、
二重にかさなるその光を映すだろう、
私たちの二つの精神、これら双子の鏡の中に。神秘的な青と薔薇色から成る夕べのこと、
私たちはただ一つの稲光を交すだろう、
別れの思いのつよくこめられた、長い嗚咽のように。ややあって、一人の〈天使〉が扉をそっと押しひらき、
忠実にまた快活に、生き返らせてくれるだろう、
輝きあせた二つの鏡と、燃え尽きた焔とを。(シャルル・ボードレール「恋人たちの死」阿部良雄訳)
〈私たちの二つの心〉とは、劇中世界と内的世界の二つに分かたれた彼女と対応していると考えることができるだろう。ブーデ夫人が内的世界を通して幻視したものは、劇中世界へと二重写し(オーバーラップ)によって重ね合わされる。それは〈二重にかさなるその光を映す〉というフレーズと呼応する。ブーデ夫人の経験は、内的世界と劇中世界での彼女、それぞれが持つ光源によって別様にスクリーンへと映し出されるのだ。そして、彼女の分裂が決定的となるのは、ブーデたちが『ファウスト』を見に出かけた〈夕べ〉である。〈別れの思いのつよくこめられた〉〈ただ一つの稲光〉とは、ブーデの銃に彼女が込める銃弾だと捉えることができるだろう。それはブーデへの別れであり、ブーデと暮らしている自己との別れ、つまり内的世界と劇中世界の間の別れでもあるのだ。そして銃弾が発射され、彼女は劇中世界へと永遠に閉じ込められる事になる。銃弾を込めた翌朝、目覚めるのは劇中世界における彼女のみであり、内的世界に残された彼女の行方は示されない。内的世界と劇中世界は対照的におかれている。この詩における〈天使〉は劇中世界を司る悪魔と対応する存在という事になるだろう。しかし、二人を生き返らせてくれる〈天使〉は現れず、劇中、最後に現れるのは悪魔である。二人は分かたれたまま終わる。劇中世界に囚われた彼女と同様に、もう一人の彼女もまた内的世界の中に囚われたままなのかもしれない。