トンネルを抜けた先に広がる一面の雪景色は、真っ暗な通路の先に現れるスクリーンのよう。夕闇の朧げな光、雪国を反射する窓にまるで〈映画の二重写し〉のように男を看病する娘の姿が投影される。見つめ続けるうち、反射であることを忘れるほど没入していく。目に映るのは〈この世ならぬ象徴の世界〉。カメラによって書かれたような文章。この小説における雪国とは映画である。雪に覆われた一面の土地はスクリーンであり、そこに霊が立ち現れるように雪国である小説内世界が投影される。島村は劇場に通うように雪国を訪れる。スクリーンに隔てられたまま、観客として雪に映り現れる世界を見つめ続ける。窓の向こうを流れていくともし火、冷たく遠い光が娘の眼と重なり夜光虫のように浮かぶ。虫は春から生まれ冬が近づくにつれ死んでいく。冬が春へと移る頃、島村は初めて雪国に訪れ駒子と出会う。白粉を落とした駒子は赤い肌を露わにする。鏡いっぱいに映る雪の白さに赤く熱を帯びた顔が浮かぶ。駒子もまたスクリーンの中の存在である。駒子は昼の暖かい光で、葉子は夜の冷たい光である。駒子は蚕部屋として使われていた屋根裏で暮らしている。駒子もまた虫であり、蚕と重ねられる。島村が西洋舞踊に喜びを見出すのは、実際の西洋人の踊りを見れないからである。同様に、スクリーンに映る虚像に焦がれるように、島村は結ばれることがないからこそ、実像を知ることがないからこそ駒子を純粋に感じ惹かれる。映画の中の人物と観客が接することがないように、島村と駒子の関係性は予め破綻することが決まっている。二人を象徴するように二匹の蝶が絡まり合いながら舞う。島村が二度目に訪れるのは冬であり、雪は厚く積もる。島村と駒子を隔てるスクリーンもまた厚くなる。遠いからこそ惹かれる。島村は冬の雪国を去って初めて駒子の存在を実感する。駒子は死の近い幼馴染のために芸者として身を売って病院代を稼ぎ、いずれ焼き捨てる日記をつけ続ける。それを島村は徒労だと思う。そして徒労だからこそ美しいと感じる。島村に対する駒子の愛情もまた徒労である。島村が最後に雪国を訪れるのは秋から冬へと変わる頃、家主の死によって駒子はもう蚕部屋に住んでいない。冷えていくにつれ虫は畳の上に落ち、悶えるように死んでいく。雪によって遭難し、山から落ちて潰れた死体が重ねられる。駒子もまた、ぼとんと島村の前に倒れ込む。蛾の身が柔らかいように人の皮膚もまた薄い。気温が下がるほど生き抜こうとする体が温度を増すように、距離、そして死を象徴する雪が増すほど駒子は島村に近づこうとし生を帯びていく。近くで見る首は動物のように肉づいていて、島村に近づこうとするほど駒子は火のように熱くなる。スクリーンの向こう、観客の世界へ近づこうとすることはスクリーンの中の世界から遠ざかることを意味する。駒子が島村に近づくほど葉子は遠くなる。幼馴染の死を遠ざけるように島村に近づく駒子に対して、葉子は墓参りを欠かさない。近くへ寄ってくる人物にカメラの焦点を合わせ続ければ奥にあるものはぼやけていく。葉子と雪国は、死と共に遠景へと後退していく。不意に音が響く。遠景から真っ暗な突風のように走る貨物列車が墓地にいる駒子と島村の間近を通りすぎる。乗っているのは葉子の弟であり、墓地から霊のように現れた葉子が遠ざかっていく弟を〈悲しいほど美しい声〉で呼ぶ。遠くぼやけていた死の予感が目の前を突風のようにかすめる。鉄道が通り、手作業で縮を織っていた土地は機織地として発展し大きな町へと変わって行った。伝統である縮の雪晒しができる場所は見つからない。伝統もかつてあった生活もまた失われていく。駒子は雪国の人々が個人主義になっていくと話す。雪は年々ひどくなる。遠景として映るのは近代化の最中にある日本である。であれば、その先にあるのは戦争である。川端康成はこの小説を戦中に書き継いで行った。葉子の弟が乗った列車が黒い死の予感を帯びていたのは、戦地に出征する列車と重なるからだろう。駒子は島村へと近づこうと働きかけ続ける。しかし観客がスクリーンの中の世界に干渉できないように、島村は駒子に対して何もすることができない。〈駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない〉。〈駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音〉がする。虚しい壁とはスクリーンであり第四の壁である。遂にスクリーンが破られる。雪国に火が上がる。それは冬を生き抜こうとする駒子の生の火であり、雪国という映画のフィルムから発された火である。燃えているのは映画が上映されていた繭倉である。蚕が繭を破り羽化するように、火の中から葉子が投げ出される。不自然な姿勢で痙攣し、死そのものであるかのように。スクリーンは駒子と島村を繋ぐものでもあった。天の河が落ちてくる。島村は駒子、そして雪国と分かたれる。天の河の光は地上を照らさない。暗転した劇場の中で上映は中断され、小説もまた中断される。雪国は駒子の日記同様に焼かれ消えていく。織った人々が死んでも、織られた縮の美しさは残る。失われてゆく伝統工芸と並行して近代小説や映画が生まれた。それらもいつかは失われるだろう。日記も縮も小説も映画も他者に働きかけることも、全ては徒労なのかもしれない。しかし徒労の美しさは残るのだ。撮影された映像は常に過去である。雪国は過去に撮られ、今に上映された世界である。隔てられた世界から何を伝えようとしていたのか。それを目にして、何もできない観客は何ができるか。
川端康成『雪国』| 隔てられた世界
小説
川端康成